本ページは、一般社団法人日本自動車工業会が発行している月刊誌「Motorcycle Information」2011年06月号の記事を掲載しております。
東日本大震災では、被災地でさまざまな災害救援活動が行われているが、各地に結成されているライダーによる災害救援組織も活発に活動を行っている。被災現地の宮城、茨城、千葉、そして神奈川、東京、新潟など、各地のライダーが独自に、あるいは相互に協力しながら活動を展開した。そこでは、ガソリンが不足する中、小回りが利き、機動力のあるバイクの特性が発揮された。また、こうした災害救援組織以外にも、被災地から遠く離れた鳥取で、ライダーによる災害救援イベントが開催され、支援物資を直接被災地に届ける取り組みなども行われた。
1995年に起きた阪神・淡路大震災では、被災地の救援や復興支援にバイクが大活躍した。道路が寸断され、建物が倒壊などしたがれきの中でも、四輪車に比較してバイクは動きやすかったことから、被害状況の把握・連絡や、緊急物資の小口搬送に大きな力を発揮したからだ。それ以後、地震、水害などさまざまな災害が発生したときに、バイクによる救援・復興支援をしようと、ライダーによる自主的な組織として、「レスキューサポートバイクネットワーク」(以下「RB」)が全国各地に設立され、活動を継続してきている。
今年3月11日に起きた東日本大震災でも、こうしたRBが組織として、あるいはメンバー個人がボランティアとして出動、各地の災害対策本部(以下「災対」)やボランティアセンター(以下「VC」)との連携を保ちながらの活動を行った。そこで、各地のRBでの動きを中心に、ボランティアライダーが今回の震災への救援・支援活動にどのようにかかわったかを追いかけた。
津波の被災現場(宮城RB提供)
「われわれも被災しましたし、電話なども通じない状態で、震災発生から2日ぐらいは連絡も取り合えませんでした。だから、実際に動きはじめたのは3月13日になってからでした」と話すのは、仙台市を活動拠点としている「宮城RB」の事務局長・鈴木むつ弘さん。
1997年の設立で、近年だけでも2004年の新潟県三条市水害と中越地震、2006年の長野県岡谷市水害、2007年の石川県能登半島地震と、数多くの災害活動実績をもつRB。日ごろから、仙台市をはじめとする周辺自治体とは、防災訓練や関係会議に参加することで連携を取っていたことから、13日に市の災対から連絡があり活動が始まった。
支援物資の仕分け作業(宮城RB提供)
「RB自体、被災者も多いですし、ホームページなどでの情報発信をする余裕もないまま、少ない人数での活動開始でした」と鈴木さん。
最初に取り組んだのは、災対の物流拠点での仕事。災対には、全国の自治体などから、大量の支援物資が届き始めていた。10トントラックなどで届けられる荷物を、フォークリフトなどの機材もない中、人海戦術でトラックから下ろしたり仕分けしたり、避難所への配送トラックに積んだりするという作業。支援物資とともに、各地の自治体職員も応援に駆けつけていたことから、そうした人との協力のもとでの作業だった。さらに、物流拠点で働く人たちへの食事の炊き出しなども担当した。
「仕事の中心は、物流拠点での仕事だったんですが、バイクはすごく役立ちました」と鈴木さんは話す。宮城RBでは、隊員が所持する125ccから1,000ccまで9台のバイクを活動に使用。これらのバイクは緊急車両に指定されていたことから、ガソリンは優先的に給油が可能だったが、それでも不足すると遠方まで買い出しに出かけ、燃料を分け合って使うこともあった。
バイクが役立ったのが、まず物流拠点までの通勤。宮城RBからは、この仕事に少ないときで毎日4、5人、多いときで10人程度が参加したが、ガソリンが不足し、道路も大渋滞する中で、きわめて効率的な移動手段となった。また、4月初旬には石巻市雄勝方面での物資搬送に隊員を派遣、さらには日常的に県や仙台市、石巻VCなどへの情報収集や伝達などの仕事もあり、仕事にバイクを活用できたとのこと。
物流拠点の仕事は4月10日で終わり、それ以後は津波災害VCでの「ニーズ調査」などを担当。多数のボランティアが、全国各地から被災地支援のために来ていたことから、被災した各戸を回り、ボランティアの人たちにやってもらいたい仕事を調査して、VCに報告する仕事。VCでは、そこで要望された仕事内容によって、ボランティア人材の割り振りをすることになる。
ゴールデンウィーク以後は、ボランティアとして来る人たちが少なくなったことから、このようなニーズ調査は行ってないが、宮城RBでは今後も、できるかぎり津波災害VCに隊員を派遣することにしている。
「まだまだ被災地は片づけなどの仕事が山積しています。RBの隊員も仕事が本格稼働してきているので、活動にかかりきりになることはできませんが、可能な限り、継続的にVCの仕事に携わりたいと考えています」と鈴木さんは話している。
がれきの撤去作業(千葉RB提供)
「バイクはもちろん活動に使いますが、それだけではなくて、近年ではVCの運営に重点を置いて、ボランティアの人たちをいかに効率よく災害救援にかかわってもらえるかを考えて実行する活動に重点を置いています」と話すのは、「千葉RB」(特定非営利活動法人千葉レスキューサポートバイク)副理事長の岡田 徹さん。
岡田さんたち千葉RBでは、これまで災害救援に数多くかかわってきた経験から、「ボランティアの受け入れ態勢が整っていないと、それぞれの人の力が発揮できないだけでなくて、参加意欲も失われてしまう」と、災害の発生後、各地に設置されるVCの運営に協力する活動体制を作ってきている。今回の震災についても、3月11日の発生直後から、まず地元の千葉県内の被害情報を収集し、バイクで実際に現地にも行って調査を行った。その結果、県内では旭市が地震、津波での被害が大きいことがわかった。さっそく千葉県の社会福祉協議会(以下「社協」)とともに旭市に向かい、旭市社協と連携してVCを設置して、その運営に協力することになった。
旭市のVCで行ったのは、主に地震、津波で散乱したがれきの撤去作業や被災住宅の片づけなどの手伝い。3月16日にVCを立ち上げてから3月31日の作業終了まで、732件の依頼に対応して延べ7,608人のボランティアが作業に携わった。もちろん、岡田さんをはじめとする千葉RBのメンバーも、この作業に協力した。
旭市VCが解散した後は、福島県いわき市が被害が大きく、ボランティアの人手が求められているということで、いわき市災害救援VCや同市勿来地区災害VCの活動に参加することになった。いわき市は、海岸部全域が津波被害を受け、死者300人以上、住宅被害も17,000戸以上という状況となっている。
ただ、いわき市となると千葉市から200キロもの距離。さらに、被害状況から考えて支援も長期化することが予測された。そこで、千葉RBではいわき市内にビルの1室を借りて、そこに隊員が寝泊りして支援活動を行うことになった。この部屋は4月14日から5月9日まで借りて、岡田さんたち千葉RBだけでなく、東北地方に支援に行く他のRBのメンバーにも開放して、中継宿泊場所としても使ってもらったとのこと。
岡田さんは、このいわき市の場合は、4月25日の週はボランティア休暇を取って会社を休み、5月1日まで現地で作業、そして7、8日にも作業に当たった。また、ゴールデンウィーク中には、千葉、神奈川、茨城、新潟の各RBから14~15人がいわき市に駆けつけ、ボランティア作業に従事した。
「旭市にしてもいわき市にしても、作業はバイク利用のものというわけではありませんでした。しかし、実際にはバイクはすごく役立ちました。現場を調査したり、VCに通ったりするのに使いましたし、現場で資材が足りなくなったなどというときも、すぐに取りに行けるなど、バイクを利用することで作業の効率性がすごく高まると思います。これからも、現場で求められることは何でもやる。その中でバイクを目一杯活用していく、そんな支援を継続していきたいと思っています」と岡田さんは力強く話している。
出動したメンバー(神奈川RB提供)
タンデムでも活動(神奈川RB提供)
無線も大活躍(神奈川RB提供)
神奈川県横浜市にある「横浜災害ボランティアバイクネットワークバスの会」(以下「バスの会」)では、4月1日~4日(第一次)と4月22日~25日(第二次)の2回にわたり、宮城県気仙沼市の避難所に大型バスなどでボランティアの人たちを派遣し、災害支援するという活動を行ったが、それに同行して派遣活動全体の安全管理などを行ったのが、横浜市に本部を置く「神奈川RB」だった。
ボランティアバスというのは、ボランティア希望者をバスで被災地まで送り、必要な作業をして帰ってくるというもの。バスの会は、2004年の中越地震からこの活動に取り組んでいるが、今回の震災に際しては、現地の要望も聞きながら、避難所生活を余儀なくされている被災者の心身のケアを中心としたプログラムを立案。第一次の場合は、楽しみの少ない避難所で人形劇を上演したり、冷えた身体を温めるためのスープ、コーヒーなど温かい飲み物の提供、新鮮な野菜類の運搬、さらには医師やマッサージ師といった医療関係者や、研究者、報道関係者も同行してのバス派遣となった。必要な人員や資材を運ぶために、大型バス1台に2~4トンのトラック7台が同行するという大きな陣容だった。また、第二次の場合は、避難所にダンボールで各家族ごとの仕切りを作るために、東京都新宿区の工学院大学の学生と大量の資材を運ぶという任務でのバス派遣だった。
神奈川RBは、日常的な活動としてバスの会をはじめとする神奈川県内の災害支援関係者と、緊密な連携を取りながらの活動を継続する中で同行を依頼されたものだが、第一次のバス派遣については、ワンボックスカー3台に5台のバイクを積載して隊員8人が同行、そして第二次の場合はワンボックスカー2台にバイク2台で4人の隊員が同行した。
神奈川RB事務局長の夏賀英樹さんは、「現地では訪問する避難所も多数でしたし、ボランティアの人たちや報道関係者、研究者の方々を避難所や被災現場に乗せていくという仕事を行いました」と話す。第一次の場合、避難所慰問のための人形劇団や医師、マッサージ師などは、避難所を巡回することになるが、その場合にRBが持ち込んだバイクやワンボックスカーが大活躍。また、報道関係者や研究者の場合は、被災地の奥のほうにまで取材に行くために、二人乗りでのバイクによる案内が不可欠な交通手段となった。多数の人員や車・バイクが被災地を運行するため、全体の運行管理の必要からアマチュア無線の基地局を設置して、隊員全員がそれで連絡を取りながらの活動だった。
バスの会代表理事の秦好子さんは、「今回は、新鮮な野菜やスープ、飲み物、お菓子などを農家や企業から大量に提供していただきましたので、それを運ぶために大集団になりました。現地は、まだ携帯電話もなかなか通じない状態で、刻々と道路状況も変わりますし、多数のバスなどがどんなルートを通れば現地に入れるのかさえわからない中、RBの方々は、無線で連絡を取りながら車とバイクを駆使して手助けしていただきました。人員の輸送といい安全管理といい、RBの方々の支援がなければ、今回の任務は実現できなかったと思っています」と、同行したRBのメンバーへの感謝の気持ちを表している。
東京および茨城RBのメンバー(東京RB提供)
相馬市の被災現場(東京RB提供)
RBでの走行訓練(宮城RB提供)
今回の大震災では、前述の各RBばかりでなく、各地のRBが隊員を被災現地に送って、活発に救援活動を行った。
「茨城RB」(特定非営利活動法人茨城レスキューサポートバイク)の場合、3月16日には茨城県東海村の被災現場に入り、地元社協などと協力してVCの準備と立ち上げ、被災地でのニーズ調査などの活動を行った。
「東京RB」も対応は早く、千葉RBが立ち上げた旭市VCに隊員を派遣して作業に携わったり、東海村にも茨城RBに呼応して隊員を派遣。東海村では、ガソリンが不足していたため、約90リットルを東京から運ぶという活動も行った。さらに、静岡RBなどとも協力して、静岡県医師会の医師を福島県相馬市まで送り、避難所間の診察移動を行うなどの活動も行っている。
信越地方でも新潟RBなどが早々に活動開始。個々の隊員が自主的に被災地に向かい救援活動に従事したほか、3月26~27日には6人が仙台、石巻、気仙沼などでの物資輸送やがれきの撤去作業に従事していた。
こうしたRB間での協力や情報交換に大きな力となったのが、インターネットのメーリングリスト(以下「ML」)や掲示板などの方法。各RBでは、それぞれ独自のMLや掲示板などを設けて日常的な連絡を行っているが、それぞれのMLなどには、一部他のRBのメンバーも含まれている。一つのMLなどに、例えば「○○地域にVCが設置されてボランティアを求めている」とか、「○○地方ではガソリンがまず手に入らない」など、新しい情報が書き込まれると、それがチェーンされるように他のメンバーにもすぐに流れるという形。いわばお互いの情報共有が自然に行われ、協力関係を保った形での活動が行われていた。
また、今回話を聞いたRBの人たちが異口同音に話していたのが、日常活動での地元自治体や関係機関との連携の重要さ。各RBでは日常的な訓練として、年間計画で救急救命講座の受講や走行訓練などの予定を組んでいるが、それと同時に地域や関係団体との協力による防災訓練や、さまざまなイベント、会議などへの参加も織り込まれている。そうした地域での団体、個人間の緊密な信頼関係を築いていくことで、初めて緊急時の協力依頼などが行われる。
いま、全国で多数のRBが独自に組織されているが、ライダーとしてバイクを楽しみながら、災害時にバイクや自分の能力を役立てようと、地域に密着した地道な活動を続けている。
復興支援イベントの参加者(隼駅を守る会提供)
支援物資を積んだトラックが出発(隼駅を守る会提供)
被災現地で支援物資を提供(隼駅を守る会提供)
今回の東日本大震災については、RBだけでなく一般のライダーからも被災地支援の動きが出ている。その一つが、被災地から遠く離れた鳥取県に集まった全国のライダーや地元住民の動き。
同県八頭町の若狭鉄道・隼駅は、その名前にちなんでライダーが集まる駅となっている。「隼」というのはスズキの海外向け大型バイクの名前。この駅では、毎年8月8日に町おこしの一環として「隼駅まつり」を開催していたが、2007年ごろから毎年この日に隼を中心とするバイクがツーリングで集まるようになった。2010年のこの日には600台以上のバイクが全国から集まるという、大人気のツーリングスポットとなっていた。
一方、地元では隼駅まつり以外にも、4月に全国のライダーが数多く集う「竹林まつり」を開催していたが、今年4月29日の計画が東日本大震災によるイベント自粛の動きの中で、中止の方向となっていた。そこで動き始めたのが、インターネット等で交流を図っている隼などのライダーだ。そうしたライダーの提案で、イベント内容を「隼から被災地へ~東日本大震災復興支援イベント~」と急遽変更し、地元の「隼駅を守る会」と協力しながら義援金や被災地支援物資を寄付してもらい、自らの力で直接届けるという内容で開催した。
当日は、100台以上のバイクを含めて約150人が参加。義援金などを含めて20万円ほどの金額が集まったことから、その日のうちに果物、お菓子、お米などの食料品や、カセットコンロ・ボンベ、ランタン、乾電池、下着などの生活必需品を支援物資として購入。2トントラックとワゴン車に積んで、ライダーや地元の協力者4人が、その日のうちに鳥取を出発して、目的地である宮城県女川町の女川町立病院に向かった。
そして、約21時間かけて1,100キロの道のりを走破。5月1日には病院と石巻市の避難所などで荷物を下ろし、支援物資を贈呈。さらに、がれき撤去の手伝いなどの作業をして、1日の午後4時ごろに鳥取に向けて帰路についたという。
隼駅を守る会会長の西村昭二さんは、「今回の震災で、被災地の方々はたいへんなご苦労されていると思います。中止にしようとしていたイベントが、ライダーの方々の熱意で、こんなふうに開催できて、私も協力させていただいて本当に良かったと思っています」と話している。
本ページは、一般社団法人日本自動車工業会が発行している月刊誌「Motorcycle Information」2011年06月号の記事を掲載しております。