日本人史上2人目の女性国際A級ライダーであり、80年代のバイクブームに女性レーサーの草分けとして大活躍した井形マリさん。
引退後は、女性ライダーをサポートするバイクインストラクターへと転身し、現在は女性ライダーを中心としたライディングスクール活動の企画・運営を行っています。
2003年に発病した「重症筋無力症」と戦いながら、今もなおバイクとライダーを愛してやまない井形さんにお話を聞きました。
── バイクに興味を持ったのはいつ頃ですか?
高校2年のときです。男子が通学に使うバイクの後ろに乗せてもらって、「便利だな」「かっこいいな」というのが第一印象ですね。同級生にバイクの話ができる女の子が2~3人いて、みんなで「50ccでも取ろっか?」って軽いノリで免許を取って、すぐにホンダのダックス50というバイクを買って。初めて乗ったときは、今までにない刺激的な乗り物という印象を受けました。
本田朝霞技術研究所勤務のころ。
19歳の井形マリさん。
── 高校を卒業して、すぐにレースを始めたのですか?
卒業したら就職しようと思っていて、できれば二輪や四輪の会社に行きたいなと考えていたところに、たまたまホンダの就職案内が来ていたんですよ。深いことを考えずに入社試験を受けてみたら、あっさり採用されました。入社後は管理課という部署に配属されて、タイピストとして一日中部品の名前を打っていました。その頃はまだバイクのレースがあるってことすら知りませんでした。
しばらくして、ホンダの社内にバイクチームがあることを聞きつけました。ブルーヘルメットと言うチームなんですが、そこの部室へちょくちょく顔を出すようになります。最初は「女子が入った前例はない」と門前払いされていたんですが、めげずにサーキットまで押し掛けて先輩のタイムを計ったり、バイクにガソリン入れたりっていう下働きを続けていたら、「仕方ないから125でもやらせてみようか」って言ってくれて。
そこからはあっという間ですね。筑波サーキットでライセンスを取り、レースに出るということでホンダからCB125JXというバイクを用意していただき、そして筑波選手権プロダクション125というレースにブルーヘルメットの一員として参戦しました。
── 初めてサーキットを走ったとき、感じたことは?
「自分の道を見つけた」と思いました。高校までは自分がのめり込むものがわからなかったんです。だから、バイクに出会ってレースを始めたとき、「この世界で絶対生きていくんだ」って決めました。
それとスピードの魅力は強烈でしたね。でも速く走るのはすごく難しくて、そういう部分がのめり込む原因だったかな。とにかく負けず嫌いなので(笑)。
── 会社でも頭の中はレースのことで一杯?
レースを始めてからは、夕方に仕事が終わるとブルーヘルメットの部室に行って先輩に整備を教えてもらい、週末はサーキットに出向いてスポーツ走行や地方選手権に出たりという日々でした。ノービス、ジュニアと成績が上ってくると、ホンダから補助金が出るようになって、それを車両代や部品費用にあてていました。ホンダの社員でレースをするのと、一般人としてレースをするのでは、サポートが全然違いますから、国際A級を取るまではホンダでがんばろうという考えはありましたね。
国際A級に昇格したのは1982年、24歳のときです。この頃にはもっと練習してプロになりたいという思いがどんどん強くなっていました。そこで会社を辞めて、レーサーとしての道を歩むことになります。
1983年鈴鹿8時間耐久レースでの勇姿。
17位で見事完走。
── 女性がレーサーとして一人でやっていくのはたいへんではなかったですか?
定期収入はないので、ヘルメットのSHOEIさんを始め、部品メーカーなどにサポートしてもらっていました。ただ当時はバイクレース業界がバブルの上り口ということもあって、お金を出してくれるところは比較的多かったですね。それと女性という部分で若干有利だな、と自覚していた部分もあります。そういうところは、計算高いんです(笑)。
── 昇格して次の年には鈴鹿8時間耐久レースに出ていますね。
もともとブルーヘルメットのみんなが出場していたので、単純に走ってみたかったのが一つと、国際A級を戦うための資金調達という下心もありました。
一年目はブルーヘルメットの先輩に、おんぶに抱っこ状態でなんとか走って17位。このときはホンダ時代からお世話になっている神谷忠さん(※)に、オートバイを貸してもらったり、テレビ局の取材を取り付けてもらったりといろいろバックアップしてもらいましたね。
翌年はシェリー・フライダスっていうアメリカ人の女性ライダーと組んで走りました。当時シェリーさんは怪我をしていたみたいで、タイムがあまり良くなかった。鈴鹿8耐は外人の方とペアを組むと、特別枠ということで予選に通らなくても本選に出られるんですけど、レーサーとしてのプライドがあるので、それは絶対に嫌だった。そこはわたしががんばってタイムを縮めて、45番グリッドで予選を通過しました。本選も無事完走できて、24位でレースを終えました。
※:神谷忠ホンダでテストライダーを務め、NR500の開発にも携わった日本バイク界の重鎮。ホンダ在籍時にはブルーヘルメットにも所属している。現在は災害VBN埼玉隊長やレーシングスクール校長などを務め、二輪車の啓蒙活動を精力的に続けている。ライディングに関する著書も多い。
── 当時のバイク業界の雰囲気ってどんな感じでしたか?
業界自体が勢いに乗っていて、レースをやる人間も多かった。わりと世間がレースに興味を持っていたように記憶しています。バブルでお金があったからかもしれませんね(笑)。平忠彦さんの活躍も起爆剤になりました。80年代の真ん中のあたりに『レディスバイク』という雑誌が創刊され、「格好良いレーサー特集」などの企画がよくありましたね。レースやレーサーに興味を持つ女性が増え、その余波でバイクに乗る女性が爆発的に増えたのでしょう。
── 井形さんも引っ張りだこだったのでは?
取材はものすごい数でしたね。二輪雑誌よりもむしろ一般の雑誌のほうが多かった。テレビ局へ収録に行ったら、「ここでバイクを起こしてください」っていきなり言われたりもしました(笑)。
8歳年下の妹、井形ともが全日本選手権GP125に出場した時。
井形マリさんは監督をやっていました。
── 順風満帆の井形さんが、29歳の時にレースで大怪我をされたのですね。
そのころ海外のレースに参戦する人が出てきていて、わたしも成績を上げてさらなる飛躍を、と思っていました。ところがレース予選中に思いっきり転倒してしまい、骨盤バラバラ、股関節がバキッと折れるという大怪我を負ってしまったんです。まだレースをやめたくなかったので、一生懸命リハビリもして、一年以上かけてなんとか歩けるようになって、早速バイクに乗ってみたんですけど、やっぱり痛い。股関節って人間にとってすごく大事なところなんですよ。ここが壊れてしまったんじゃ、もうレースは無理だなぁ、と思いました。できるかできないかっていうのは、自分自身が一番良くわかっているので、残念だけど仕方ないかなって。
── その後どうされたんですか?
当時のわたしは「バイクで食べていきたい」という気持ちがとても強かった。残念ながらレーサーの道は絶たれてしまったけど、タイミング良くバイク講師のお仕事が来たんです。ラッキーだったと思いますね。当時、CBR系のレーサーハンドルタイプが流行していたのですが、これは公道で乗りにくいバイクだと言われていました。そういうバイクを買った女性が、乗れないままバイクを降りてしまうというケースが続出して、販売店で講習会をやったほうがいいんじゃないか、っていう話がでていたんですよ。そこでわたしのような女性レーサーを講師にしようという話が持ち上がったようです。講師の依頼は頻繁にあり、怪我をした翌年には女性ライダーの育成と指導を行う「チームマリ」を結成させました。わたし自身はまだ杖をついていましたけど(笑)。
── 大勢の人に安全な乗り方を伝えるわけですけが、最初から上手くいきましたか?
最初はやっぱり苦労しましたね。あまり理論的に物事を考えられるタイプではないので、この感覚をどう伝えたらいいんだろうって、悩みました。でも場数を踏めば、どう教えたら良いかは自然とわかってくるものですよ。
当初、戸惑ったのは女性ライダーが走りに対して求めていることが、わたしの求めてきたモノと違っていたことです。わたしがずっと追い求めてきた「速く走る」という技術は、一般の女性ライダーは求めていない。Uターンや、坂道発進ができるようになることの方がずっと重要なんですよね。
妹の井形ともさんと。
井形ともさんはWGP125ccクラスに
日本人女性として初めてフル参戦した経歴の持ち主。
現在はスクールの企画総括責任者です。
── 女性にライディングを教えることのやりがいってどんなところにありますか?
劇的に変わるんですよ、女の人って。うちのスクールは入るとまず初級・中級・上級に分かれます。初級に入って、発進できない、Uターンできない、立ちごけも何度もしちゃうって人は、すごくおどおどした顔をしてます。でも、「同じ女性なのにこんなに走れるの?」っていう人が、上級・中級の参加者やインストラクターに大勢いる。そういう女性を見て、「私も練習すればできるようになるんだ!」って希望が湧く。それで何度も練習して上手になると、その自信が顔つきに出てくる。そういう成長を目の当たりにできることに、すごくやりがいを感じます。
── スクールに来られる女性はどんなかたですか?
スクールを始めた当初は、若い人ばかりでした。最近は30~40代の方が多いですね。女性は結婚したり子どもを生んだりするとバイクに乗らなくなりますが、子育てに一段落すると、「20代のときに乗っていたからまた乗ろう」という考えに至るようです。80年代のバイクブームのときに乗っていて、また乗りたくなったっていう人が結構来られています。
── 昔と今で女性ライダーが変化した部分ってありますか?
女性だけのスクール「チームマリ・モーターサイクルレッスン」。
栃木県のツインリンクもてぎにて
1996年に教習所で大型二輪免許が取れるようになり、大きく変化しましたね。以前の大型二輪免許は、最初に普通二輪免許を取って、250や400を何年か乗ってから警察の免許試験場で何度も厳しい試験を受けて手にするものでした。だから大型二輪免許を持っている人は女性でもそれなりに走れる人だった。今はまったくバイクに乗ったことのない人でも、教習所に行けばいきなり大型二輪を取れる。ステップを踏まなくてもいいんです。この制度変更を機に大型二輪免許保持者は増えました。でも本当に走れる人は多くないでしょう。
大型二輪が簡単に取れるようになったことにより、教える側としてはとても大変になりました。免許を持っているから1台目のバイクに大型を買い、初めて参加するレッスンも「750をレンタルして練習します」っていう人がいる。750のバイクに無理やり乗っても、バタバタ倒すだけで効率の悪い練習になってしまうんです。だから「250か400の扱いやすいバイクで練習を重ねてから750に移行したほうが、早く上手くなるんですよ」とステップアップして練習することを勧めるんですけど、なかなか聞いてもらえません。
それとみなさんお金持ちなんですね。一台目に買うバイクは外車がすごく多い。しかも女性の場合はデザイン重視なんですよ。いきなり1000ccの外車を買ってしまう人も少なくありません。初心者には扱いにくい癖のあるバイクを選んでも、乗りこなせるわけないのですが。
── そういう人もスクールに通えば乗れるようになりますか?
途中で嫌にならなければ大丈夫です。でも大きいバイクを買って車庫から出せない人って、本当にいるんですよ。わたしたちからすれば、バイクショップはそういう人には売らないでほしい、という思いがあります。外車メーカーは今すごく強気で売っていますけど、乗れない人に売るということを問題だと考えてはいないのでしょうか。
── バイク業界に注文を言うならば?
メーカーは警察に頼らずに、もっと安全運転の講習会を開催するべきです。それは売るものの義務だと思います。経済活動なのでお金をかけられない事情があるのはわかります。でも、ひとアクセルで100キロ以上出るものを売っている会社なら、安全に対する活動にもそれなりにお金をかけるべきです。
安全に対する意識という点では、ライダー自身にも変革を求めたいですね。安全のためのスクールって「無料」という意識が大勢の人にあると思うんです。でも安全はお金を払って手に入れるものですよ。ホンダが昔やっていたスクールは一回3,000円だったけど、もっと高くてもいい。「安全はお金を出して身に付けるもの」ってことを、どのメーカーもアピールしないといけないんじゃないでしょうか。うちのスクールは一日で15,000円しますけど、必ず定員オーバーします。それだけ切実に上手になりたいと考えている人が多いんですよ。
── 女性ライダーにアドバイスするとすれば?
男女の決定的な差は筋力の差で、それがもろに影響するのがバイクです。車庫からバイクを出せない男性っていないし、体の小さい男性が上手く乗れるのも、ある程度筋力があるからでしょう。でもそれを女性だからできないと言うのではなく、技術を身につけることでなんとでもなる、ということを理解してほしいんです。
筋力で男性には勝てなくても、そこは技術で補える。足つきにしても、技術でカバーできます。信号待ちなど停止する際に、バレリーナのように両足がつま先立ちになって怖いという方がいますが、お尻をずらして片足だけを地面につければ安定します。身長が小さいことを言い訳にする女性も多いですが、背の低いインストラクターはちゃんと工夫して乗っていますよ。
── 2002年に大きな病気を患っておられますが、お話を聞かせてもらえますか?
サーキットに出てのレッスン。
井形マリさんのホームグラウンドでもあり、
笑顔がこぼれます。
事故で割ってしまった股関節の痛みが、15年かけてひどくなったので、人工関節に変えたんです。その手術をしたすぐあとに「重症筋無力症」という病気にかかりました。国の指定する難病です。手が上がらないところから始まって、物も全然噛めなくなる。起き上がることもできなくなって、寝たきりみたいでしたね。もちろん良くなる方法はあって、食事療法や投薬・手術などの治療は続けていました。ただタイミングが悪いことに、この病気にかかったあと、チームマリを金銭的にサポートしてくれていたホンダさんが、それを打ち切るという話を持ち出してきたんです。
当時はわたしの症状もすごく悪化してきていたし、さすがに「もうやめちゃおうかな…」という気持ちになっていました。ところが、チームマリを存続させるために生徒さんをはじめとする有志が署名活動を始めてくれて、それがあっという間に6,000名以上集まったんです。
チームマリをずっと続けていたけど、その手ごたえを感じたことってあまりありませんでした。でもこの署名運動で確かにそれを感じたんです。そのおかげで「チームマリをやらなければいけないんだ!」という気持ちになったし、「病気なんかしてられない!」って、闘病の支えにもなりました。インストラクターのみんなも一生懸命サポートしてくれたし、署名用紙を受けてくれたホンダさんも、支援を続けましょうと言ってくれました。
その後は病状もひと段落して、こうやってお話できるまで回復しています。まだ完治したわけではないですから、体調管理など大変なこともありますけど、最近はスクールにも顔を出しているし、もっと回復したらサーキットにも戻りたい、という気持ちもあるんですよ。
── 今後チームマリが目指すものは?
マリ輪CLUB(まりりんくらぶ)の九州ツーリングのときの一枚。
会員数は現在全国に1195名を抱える。
バイクに乗れる技術を身につけた女性の数をもっと増やしたい。これは、その女性が母親になったとき、子どもにバイクの素晴らしさや技術を伝えられる女性を増やすことが目的です。親子でバイクと言っても、お父さんが子どもに教えることが多いですよね。でも子育てをメインで行うのは女性です。バイクだけじゃないですけど、何が安全で何が危険かということは、母親も教えるべき。それには母親自身が安全と危険、どちらもわかっていないとダメですから。
── 最後にお聞きします。井形さんにとってバイクの魅力ってなんですか?
相手が機械なので、それをコントロールする難しさがおもしろいですね。バイクごとの特性があって、それをどういう風に生かしたらうまく走れるかを考えることが大好きで、そこが魅力です。
(2006年12月5日(火) 於:東京品川・NMCA日本二輪車協会)
バイクインストラクター
1958年 | 東京生まれ |
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1978年 | 20歳でレースデビュー 筑波選手権プロダクション125 年間ランキング3位 |
1979年 | ノービス125 全日本選手権ノービス125 年間ランキング5位 |
1980年 | ジュニア125 全日本選手権ジュニア125 年間ランキング11位 |
1981年 | 国際B級125 全日本選手権国際B級125 年間ランキング8位 |
1982年 | 国際A級昇格 ※日本人女性史上2人目 |
1983年 | 世界選手権鈴鹿8時間耐久オートバイレース 総合17位(ペアは日本人男性ライダー) |
1984年 | 世界選手権鈴鹿8時間耐久オートバイレース 総合24位(ペアはアメリカ人女性ライダー) |
1985年 | 国際A級125 全日本選手権国際A級125 年間ランキング5位 |
1987年 | 国際A級125 全日本選手権国際A級125出場中に転倒し、怪我のため引退 |
1988年 | チームマリ結成 |
1993年 | 女性ライダー限定のライディングレッスン「ビューティライディング」を開催 |
1997年 | 女性だけのライダーズクラブ「マリ輪CLUB」を結成 |
2003年 | 重症筋無力症発病 |
2004年 | 女性ライダー限定の「チームマリ・モーターサイクルレッスン」を開催 |
2005年 | 女性ライダー限定の中高速プログラム「ビューティ・サーキットレッスン」を開催 「マリ輪CLUB」の登録メンバーが1000名を超える |
1 現在の愛車は? | ホンダのCBR954です。最近乗ってなくて、妹(元GPライダーの、井形とも)に取られていますけど。 |
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2 最初に乗ったバイクは? | ホンダのダックス50です。 |
3 今後乗ってみたいバイクは? | 少し前に思ったのはアプリリアのRS125。すごいおしゃれな感じだったので。 |
4 愛用の小物は? | チームマリの刺繍が入っているバンダナを愛用しています。それとSHOEIさんのヘルメット。 |
5 バイクに乗って行きたいところは? | オランダのアッセンと、イギリスのドニントンパークへ行って、motoGPを観たい。 |
6 あなたにとってバイクとは? | 連れ合い。相棒。 |
7 安全のための心得はありますか? | 自分の技術を客観的に見られること。 |
8 バイクに関する困り事は? | メーカーはもっと乗る人の安全を考慮した販売をしてほしい。 |
9 憧れのライダーは? | 堀ひろこさんです。亡くなってしまいましたが、憧れたのはあの人だけですね。 |
10 バイクの神様に会ったら何と言う? | バイクとめぐり会わせてくれて、ありがとうございました、かな。 |
タイラレーシング(株)代表/元GPライダー
オートバイは異空間。そして地球上で一番自由な乗り物です。
ホンダ・レーシング ライダー
モーターサイクルスポーツを、この国にしっかり根づかせたい。
カワサキ モトGPファクトリーライダー
たくさんの人に支えられて、プレッシャーの中で走る快感
MFJ全日本レディスモトクロス選手権
チャンピオン
出来ないことが、出来るようになる。その時がいちばん嬉しい
能楽囃子大倉流大鼓
重要無形文化財総合認定保持者
オートバイは失われた日本の精神文化を取り戻すツール
噺家
バイクで走れば噺の舞台が見えてくる
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バイクがなかったら僕が僕じゃなくなっているかもしれない
女流棋士
将棋の駒ならバイクは香車。バックギヤはありません
アライヘルメット社長
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モータースポーツカメラマン
レンズの向こうに見えるライダーの想いを伝えたい
バイクインストラクター
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「憧れ」から「等身大」に視点を変えて出会った、運命のバイク
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自分をどこにでも連れて行く、バイクは「筋斗雲(きんとうん)」
株式会社ハドソン 宣伝部
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