著名人インタビュー

平 忠彦さん

Vol.01 タイラレーシング(株)代表 元GPライダー 
平 忠彦さん
オートバイは異空間。そして地球上で一番自由な乗り物です。

各界のライダーの方々にモーターサイクルの楽しみを語っていただくインタビューシリーズ、第一回は、NHK教育テレビ「趣味悠々 中高年のためのらくらくツーリング入門」の講師を勤められる平忠彦さんのお話です。

1980年代、栄光のヤマハワークス全盛期を築いたグランプリライダーの平さんに、バイクとの出会いから現役レーサー時代の苦難と栄光、そして引退後から現在まで、バイクとの新しい関わりについてもお聞きしました。

いつもオートバイがそばにあった

── 16歳で免許を取られてから40代の今まで、まさに激動のオートバイ人生ですね。

一言でいえば、十代は「好奇心」、二十代が「トライ」。三十代になって、仕事から生活の中にバイクが加わってきた。四十代の今現在は、「楽しみ」でモーターサイクルと共存しているという感じでしょうか。
オートバイ好きの父親と兄貴のおかげで、小さい頃からオートバイが身近にあったんです。子どもながらにエンジンのかけ方、始動の仕方、乗り方も、ごく自然に環境の中で身に付いていった。どんどんオートバイに対する興味と好奇心が膨らんで、将来はオートバイレーサーになりたいという夢を抱くようになりました。
父親は早くに亡くなりましたが、大正生まれの農家の長男で、オートバイに限らず「新しモノ好き」というんでしょうか、そういう環境が僕にとっては良かったと思います。当時は、僕はホンダスーパーカブ、父親はホンダスポーツカブ55、7歳年上の兄は高校生の頃にホンダCB72などの機種に乗ってましたね。

毎日が崖っぷちの駆け出し時代

レーサー時代:デイトナ200マイル

レーサー時代:デイトナ200マイル

19歳でロードレースをスタートした頃は、収入も少ないし、レースには資金がかかるので、大変な時期でした。母親も兄貴もレースには大反対でしたね。それでも何とか参戦したくて、当時住んでいた埼玉県上尾市のレーシングチームに所属し、レースをスタートしたんです。
そんな環境ですから、甘えは一切許されません。結局レースを続けて引退するまで、親兄弟からレース資金を一円も借りたことがないんですよ。朝は新聞配達、日中は整備工場、夜はガソリンスタンドでアルバイトをしてました。レースで転んでケガをしても、腕を折っても仕事は一切休まなかったですね。
それからイナレーシングというところでレースを始めました。ライダー仲間の間では、メーカーの契約ライダーになる、あるいは海外グランプリに参戦するという目標を皆が持っています。僕の場合は資金面や生活の安定を考えて、メーカーの契約を目標にしました。そのためには自分と同レベルの試合には絶対負けないという意気込みで戦ってましたね。毎戦、毎レースが崖っぷちですよ。当時をふりかえると、よくやったとも思いますが、やはり目標・目的を持つと人間というのは強くなるものだと思いますね。

栄光のヤマハ21時代

26歳の時、何百人という国際A級ライダーがいる中で、ヤマハが平忠彦を指名してくれた。これはもう、この上ない喜びです。契約金はもう、言うのも恥ずかしいぐらいの額ですよ。ただ、お金じゃないんです。指名してくれたヤマハに対して、きちっと恩を返さなくちゃいけない。それまでのアマチュア意識から、プロとしての新たな気持ちを持たないと再認識しました。
国内4社のオートバイメーカーの中で、ヤマハの考えというのは明解なんですね。ライダーにとって一番嬉しいのは、テストやレースで転倒した時に、一番最初に「ライダーは大丈夫か」と言ってくださること。オートバイはリペアすれば直る、と言ってくださることです。常にライダー、人間を大切にするというのは、当時から今も変わらないヤマハの考えで、それが商品づくりにも表れているんじゃないでしょうか。
当時はホンダとヤマハが激烈にシェアを争って「HY戦争」などと言われたり、二輪業界が大きく動いていた時期でしたが、各大会、各サーキットでのレース結果を、ヤマハ発動機の工場内で放送していたと聞きました。例えば全日本選手権でヤマハの平が優勝したとか、筑波大会でヤマハの誰それが勝つと、歓声が上がったりしたそうです。オートバイを作る工場のヤマハマンも、レースをする僕らヤマハライダーも、全社一丸になったというイメージがすごくありますね。

35歳、現役引退を決意

レーサー時代:WGP500(1987年)

レーサー時代:WGP500(1987年)

三十代半ばになると、求められる戦績や立場と相反して、体力が落ちてくるんです。レースでも好成績を維持するのがだんだん難しくなる。ごまかしが効かないんですね、レースっていうのは。周囲にも、大事故に遭遇した先輩や同僚の選手、その家族がいましたから、そういう環境になったときには自分で引退すると決めてました。そんな形で、現役生活に終止符を打った時期でしたね。
会社のレース担当の方には、1番じゃなく2番、3番ならまだやれるんじゃないかと言われましたが、僕は何か、そうじゃないと思ったんです。1番をとるために全身全霊をかたむけてやってたんですよ、そのためだけに。ですから、アドバイスを受けて、そうですかというわけにはいかなかったんです。
辞めてからも、オートバイとの関わり合いはずっと維持していきたいと考えてました。16歳で免許を取ってオートバイにまたがった、その当時の気持ちは、35歳で引退したときも何ら変わりはありませんでした。歳をとって白髪は増えても、オートバイと関わるマインドは16歳と一緒なんです。

── そうして輝かしい戦績を残して、いよいよ仕事と生活の中での新たなバイクとの付き合いを始められたわけですね。

タンデムで平流ライディング指南

── お店のお客さまやライディングスクールの生徒さんたちには、どんな提案やアドバイスをされるのですか。

お客さんと接していて一番難しいのは、私を含めオートバイ業界内にいる人たちとは違って、お客さんはやはり、時間にもお金にも制限がある。特に三十代半ばから四十代といえば、ご家族や子どもさんがおられたりで、オートバイと触れ合うチャンスが少ない年代でしょう。そこを上手くオートバイに引き寄せて魅力を伝えなくてはならない。できるだけの働きかけはしますが、みんなが同じコンディションではないですからね。

私が住んでいる静岡の浜松近郊は、幸いにしてワインディング・ロードが多い場所なんです※。ですから大人数ではなくて、それぞれの日程に合わせてショートツーリングに行ったり、私の後ろに乗ってもらって、安全に走るテクニックやノウハウをちょっとお教えしたり。 レーシングスクールでも講師をしていますが、何でも教えるって難しいじゃないですか。特にオートバイの場合は感覚的な部分が多いので、言葉で伝えるのが難しい。サーキットでもタンデムで後ろに乗っていただいて、ブレーキの扱い方やアクセルワークやラインの取り方を事細かに教えています。

平さんのおすすめツーリングコース

愛知県東部の稲武町、鳳来町、東栄町、津具村周辺。
コース取り次第で信号のないワインディングロードを数十キロも楽しめる。

安全と上達の秘訣は

危険を回避するために一番大事なのは、認知なんです。危険を察知し、状況を認知して即座に行動に移し、ブレーキを握り、回避する。僕が言うのは、全体を絶えず見てくださいということなんです。常に死角はあっても、限られた視界の範囲内であれば、相手の行動がだいたい読める。あの先の交差点から自転車が出てきたらとか、3台前の車がブレーキを踏んだらどっちに回避するか、意識しながら乗る。一点じゃなくて、視界全体を絶え間なく見るということですね。
オートバイを含め、乗り物は扱い方を誤ると危険なこともあります。ですから、絶対に事故を起こさないように、その防御策として、自分の身を守るライディング技術を身に付けたり、ツーリングに行くなら全国各地の環境の違いを知る。体力も必要です。そういうところまで本人が意識しながら操作しないと、安全に長い期間オートバイと豊かに暮らすことはできないと思うんですね。

夢は究極の平マシン

── ひとりのライダーとして、平さんの次の課題、次の挑戦は何でしょうか。

これからですか? やはり、今までの経験を生かさないともったいないですから、できるだけオートバイ業界にお役に立てるようにしていきたいと思っています。それが一つ。
それから、オートバイをつくる方も好きなんですね。レーサー時代も、オートバイの開発をしながら、実戦でレースに参戦していました。現在、ある外車メーカーの機種を持ってますが、それは海外メーカーがどんなふうに日本と違うもの作りをしてるのかを学ぶためです。
よく「ハンドリングのヤマハ」「エンジンのホンダ」などと言ったりしますが、将来は、そういうメーカーの良い所を自分自身が噛み砕いてチョイスしながら、「平がつくったバイク」を世の中に出してみたい。自分が「これだ」と思えるものをつくるのが憧れですね。

二輪の環境整備とイメージアップ

── 二輪の環境整備のために、一人一人のライダーができることはありますか。

5月や8月の休みの時期など、四輪で渋滞している中にオートバイがパッと入って、横に並ぶケースってあるでしょ。その車に家族が乗っていたり、子どもさんが乗っておられたとする。この家族から見たバイクのイメージって当然あると思うんです。僕なら、信号機がある場合にはエンジンを止めます。オートバイの騒音を伝えたくないから。人間っていうのは、イメージは音から入ってくるんですよ。音が全くなければ、追い抜かれてもさほど気にならないんですね。爆音を出したり、それに伴う行動があるから二輪のイメージが悪くなるわけです。
ほんのちょっとしたことで、オートバイを敵視しする人たちに、周りのことを考えてるライダーもいるんだいうことが伝わる。そういう意識をもつライダーが1人よりも10人、10人よりも100人になってくれば、オートバイの環境全体が改善されていくはずです。

4メーカー・団体がもっと力を

── NMCAなどの団体や行政に対して、ご意見はありますか。

たくさんあって、気が重くなるんですけど(笑)。一番のおおもとはやはり人間だから、常識のあるライダーが増えてくることが、どんな規制緩和よりも、一番重要なことだと思いますね。
その上で、世界を代表する4メーカーが日本にあるわけですから、メーカーや団体が国に対してもっとプッシュしてほしい。GPでも走ってるのはほとんど日本メーカーですよ。それが何十年と続いているわけじゃないですか。なのに二輪の高速料金ひとつとっても、高い。これから二人乗りが解禁にもなるわけですから、料金なども是非改善して欲しい。
僕は浜松在住ですが、バイクメーカーが集まる「バイクの街」として有名なわりに、オートバイに乗る方が少ないです。その理由は、いろいろあると思うんですよ。オートバイは雨が降ればカッパを着ないといけないし、駐輪場の問題もある。バイクのイベントなどでもそうですが、やはり駐輪場は一番近くにとか、ドライルームを備えるとか、オートバイに乗る環境を整え、オートバイライダーを最優先に考えてみることも必要だと思いますね。

リターンライダーたちへ

── 平さんと同世代のリターンライダー予備軍に、一言お願いします。

四十代、五十代になると、会社でも立場も責任もあり、仕事も忙しく時間もないという方、多いですよね。そういう方だからこそ、オートバイに乗って欲しいんです。と言うのはオートバイというのは、ちょっとした異空間を体験することができるからです。
ヘルメットをかぶり、自分のライディングギアを身に付け、オートバイにまたがった瞬間から異空間です。それから道中のスピードや景色、新鮮な空気、海岸沿いなら磯の匂い、高原……、四輪では絶対に体験できない、オートバイの特権です。走行中は、煩わしいことや会社のことを考える余地もない。そうして移動し、目的地に着くと、そこでまたリラックスできる。この変化が非常におもしろい道具だと思うんです。
車で移動して旅行に行っても、普通はその生活の延長上でしかない。二輪と四輪は、そこが大きな差だと思うんですよ。地球上の、原動機を積んだ乗り物の中で、僕が思うに、これだけ自在に乗り手側が操作できる乗り物は、飛行機とバイクだけだと思うんです。

オートバイで特別なひと時を

長野へのツーリングで

長野へのツーリングで

── 最後に、バイクに乗らない方たち、本当は乗りたいんだけど乗れない、あるいは、どうしても好きになれない、という方たちに向けてメッセージをいただけますか。

オートバイは大変幅広く活用できる乗り物です。渋滞を回避するといった実用性の一方で、上質なオートバイに乗る大人のステータスといった趣味性の部分もある。初心者から経験者、また老若男女を問わず、さまざまな楽しみ方ができます。ちょっとした時間を利用しての気分転換から、たっぷりと時間をかけ計画を立ててのツーリングまで、肌で季節を感じながら気軽に時を楽しむことができるんです。是非リターンライダーの方も含めて、オートバイに乗って特別な時間を得てみてください。

(2004年6月15日(火) 於:東京品川・NMCA日本二輪車協会)

平 忠彦 プロフィール

平 忠彦

平 忠彦(たいら・ただひこ)
タイラレーシング(株)代表/元GPライダー

現在、一男二女の父。
趣味はツーリングにクレー射撃。

1956年11月 福島県に生まれる
1973年 父、兄の影響で免許取得
1976年 レースを始める
1978年 ノービス250デビュー、ランキング3位
1979年 ジュニア350クラス戦6勝の成績を挙げ一躍名を挙げた
1980年 全日本A級350クラスチャンピオン
1981年 500に乗り始める
1983年 ヤマハワークス入り、全日本500チャンピオン
1985年 3年連続全日本500チャンピオン
1986年 "WGP250にフル参戦、サンマリノでのGP初優勝
凱旋国内レースでガードナーとローソンを破り2連勝"
1987~89年 WGP500フル参戦
1990年 鈴鹿8耐優勝
1992年3月 "現役引退
タイラレーシング(株)設立"

平 忠彦さんへ「10の質問」

1 現在の愛車は? ヤマハ車(XJR1300、TRX850、XS650)と、外車数台
2 最初に乗ったバイクは? ホンダスーパーカブ
3 今後乗ってみたいバイクは? 将来自分が作る夢のマシン
4 愛用の小物は? 現役レーサー時代からヘルメットはずっとArai。ものづくりと安全性に対するこだわりが並大抵ではない。
5 バイクに乗って行きたいところは? 新潟から船でウラジオストックへ渡り、陸伝いにヨーロッパへ。
6 あなたにとってバイクとは? 分身・相棒・なくてはならないもの
7 安全のための心得はありますか? レースでもツーリングでも「心と身体とマシンの慣らし」
8 バイクに関する困り事は? 「三ない運動」。若い世代に二輪に乗るチャンスを与えるべき。スピードやこのように扱うと危険なんだ、と言う実体験を早い時期にさせるのが大切だと思う。
9 憧れのライダーは? 60代、70代、80代と歳を重ねた平忠彦。
10 バイクの神様に会ったら何と言う? 一言、感謝。僕をバイクと巡り会わせてくれてありがとう。バイクのない人生なんて考えられない。

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